スポンサーサイト

--.--.--
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
記事URL | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) | 【--:--】

冬の暖かさ

2005.11.30
鼻歌を歌いながら家に帰りたいなと思うことがありました。
ほんと、人間関係は安穏ですし、勉強は楽しいのですが、どうも気分が晴れないんですね。
疲れてるとも違うのかもしれない。
なんだよくわからない。
よくわからないので早く寝ます。

W.Bouguereauの絵はきれいですね。
L'innocenceが好きです。
スポンサーサイト

ねたばれなのかなあ

2005.11.29

ソーニャ:
でも、仕方がないわ、生きていかなければ!
(間)
ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるともしれない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね。運命が私たちにくだす試みを、辛抱づよく、じっとこらえて行きましょうね。今のうちも、やがて年をとってからも、片時も休まずに、人のために働きましょうね。そして、やがてその時が来たら、素直に死んで行きましょうね。あの世へ行ったら、どんなに私たちが苦しかったか、どんなに涙を流したか、どんなに辛い一生を送ってきたか、それを残らず申し上げましょうね。すると神さまは、まあ気の毒に、と思ってくださる。その時こそ伯父さん、ねえ伯父さん、あなたにも私にも、明るい、すばらしい、なんとも言えない生活がひらけて、まあ嬉しい!と、思わず声をあげるのよ。そして現在の不仕合わせな暮らしを、なつかしく、ほほえましく振り返って、私たち--ほっと息がつけるんだわ。わたし、ほんとにそう思うの、伯父さん。心底から、燃えるように、焼けつくように、私そう思うの・・・
(伯父の前に膝をついて頭を相手の両手にあずけながら、精根つきた声で)ほっと息がつけるんだわ!

ほっと息がつけるんだわ!そのとき私たちの耳には神さまの御使たちの声が響いて、空一面きらきらしたダイヤモンドでいっぱいになる。そして私たちの見ている前で、この世の中の悪いものがみんな、私たちの悩みも、苦しみも、残らずみんな――世界中に満ちひろがる神さまの大きなお慈悲のなかに呑みこまれてしまうの。そこでやっと、私たちの生活はまるでお母さまがやさしく撫でて下さるような、静かな、うっとりするような、ほんとに楽しいものになるんだわ。私そう思うの、どうしてもそう思うの・・・
(ハンカチで伯父の涙を拭いてやる)
お気の毒なワーニャ伯父さん、いけないわ、泣いていらっしゃるのね。
・・・(涙声で)あなたは一生涯、嬉しいことも楽しいことも、ついぞ知らずにいらしたのねえ。でも、もう少しよ、ワーニャ伯父さん、もう暫くの辛抱よ。・・・やがて、息がつけるんだわ。
・・・(伯父を抱く)ほっと息がつけるんだわ!
 

ソーニャ:ほっと息がつけるんだわ

チェーホフ作 神西清訳「かもめ・ワーニャ伯父さん」(新潮文庫)より



傷心のワーニャを、失恋したソーニャが慰めるというクライマックスの台詞です。
なんだ、いろいろと胸にくるのです。

べつに病んでいるわけじゃないよ

2005.11.28
たまに消えてしまいたいなと思うときがあります。
恥ずかしいとかそういうのではなくて、自分が自分でなくなって、なにか違うところから身の回り全てをみてみたいと思うのです。
いつも見てる木のてっぺんだの、建物と建物の隙間だの、授業を受けている人の頭だの、なんともくだらないものを見てみたくなるんです。
よく「鳥になりたい」だのといいますが、鳥になっても見えないものが多すぎる。幽霊になりたいんですかね。
こんなセンチメンタルなことを考えてしまうわけです。
どうせ暫くたったら、こんなことを書いたことが恥ずかしくなって、急いでこの記事を削除するのかもしれません。

んで、今日は「キリスト教の礼拝」という講義でプレゼンをしました。
私の担当箇所は「言葉の礼拝の神学」についてで、これがなかなか難しいのです。
自分が正しいことを書いているのかも分からない。しかもどうしても主観が入ってしまうのですね。
それで聞いている人は先輩ばかりで、しかも神学生もたくさんいて・・・と。
みんなしっかり聞いてくれて、ツッコミははいらなかったのですけれど、それが逆に辛かったです。
自分がただひたすら間違ったことを言って、聞いている人たちはまるでそれに呆れているのではないかと思ってしまうのです。
このプレゼンに限らず、どのプレゼンでもそんな気がしてしまうものですが。
準備が足りないんでしょうね。だらだらやっていましたから。

彼氏とどうしたのこうしたの話している友人を見て、ちょっとそういうのが羨ましくなりました。
学科の先生には「神学は恋愛と失恋をしなきゃできないもんだよー」と言われ、母校の先生には「恋がないと哲学なんて出来ない」と言われ、なんとなく焦ったり考えたりしています。
でもどうせあがいても努力しても、良縁(?)なんてものは見つかりそうにないし、こういう自分を好きになってくれそうな異性も特にいそうにないのでお預けです。
静観します。
なんでしょうね、羨ましいって言うのは恥ずかしいことなんでしょうかね。

外向きの自分と、中で考えてることの間にギャップが出来すぎてしまったのか。
なんとなく無意味に悲しくなることがあります。
外向きなんてあまり見なくてもいいのかもしれないのに。
こう書いて見ると、なんだか最近私はテンションが低いようです。
夜書くからいけないのかなあ。

待降節第一主日

2005.11.27
延々と死体を埋め続ける、なんとも鬱々とした夢をみてしまいました。夢って怖いですね。

まあいいや。
頭の中は冬のЧехов祭りです。
なんとなくこんな文字で書いて見ただけです。チェーホフです。
2005年春に復刊された岩波文庫の「サハリン島」と「決闘・妻」、なかなか見つからなかった「退屈な話・6号病棟」をいまさらながら買えて意気揚々としているだけです。
全集とかもたまに欲しくなるのですが、神保町で6万もしたので、微妙にあきらめ気味です。中途半端。
こんなところもあるのですが、やっぱり本と付き合いたいなあという変なこだわりで読めずにいます。短編読みたい。

今年の待降節~降誕節は、なんだか意外と予定がぎっちりで、うれしいのかうれしくないのか分かりません。
クリスマスは自己供与だなんてどっかの神父さんが言ってましたが、それが実践できることはうれしくもあり、ほのかなめんどくささを覚えることもあり・・・。

バザー。

2005.11.26
五反田のドイツ人教会のアドベントバザーに知人友人と行ってきました。
いろいろと期待して行ってみたのですが、品物がおしなべ高価で、そこんとこに関しては見事撃沈しました。300円以下がない!
在日のドイツ人がクリスマスのために買い出しをしにいくような場でもあるらしく(当然か)、学生には高値でも、おばちゃんたちが値段をものともせずにばんばん買っていってました。
「これ売れないだろうね~」などと言っていたリアルお菓子の家まで売れていたのにはビックリです。
アドベントの主日ごとに一本ずつローソクをつけていくアレ(名前忘れた)がすごい速さで売れていっていく光景は、歳末大売出しを思い出させました。激しいよドイツ人。
プロテスタント教会のためか、聖堂(集会所?)に食堂のように机を並べて、そこでケーキやジュースが飲み食いできるようになっていました。赤い食器と葉っぱのアクセントがかわいかったです。なんか日本ではだせないセンスかもしれません。
なんか他にも、温かいワインを飲んでへろへろになったり、ドイツ語の聖歌についていけなくなったり、普通にタンネンバウムが叩き売りされてるのに驚いたり、ハプスブルグ時代のオーストリアの郵便ラッパを聞かせてもらったりと、なんだかもりだくさんでした。
それにしても首都圏にこんなドイツ人がいたとは少し意外です。
日本家屋風の庭付き一戸建てに人がぎちぎちでした。
社会勉強だなあ。

Qui cantat, bis orat

2005.11.24
こんなたいそうなタイトルを付けたわりに、書くのはいつもどおりの日記です。
この言葉の解説を一応してみると、聖アウグスティヌスっていう世界史の教科書にも出てくるような、超有名な教父(キリスト教の学者みたいなモンです)が書いた言葉なんです。意味は「歌うものは二度祈る」。前々から神父さんがよく仰っていて、聖歌隊に入ろうかなあと思ったキッカケかもしれません。お得な言葉です。

今日は古代哲学史の試験でした。
「各思想の要点を書け」と言われて、要点要点と1行~3行でちょろっと書いてみたところ、周りを見るとみんな8行くらい書いていて焦りました。
気付いたときには解答用紙は教壇の上。
時すでに遅し。
それから聖歌隊の自主練をして、自分はぜんぜん歌えないことが分かり、なんとなくへこみました。
自分なりに練習しているのですけども、自分のパートが一人だけだとぐちゃぐちゃです。
でもその後先輩と焼肉に行き、なんとも幸せな気分で帰れました。
終わりよければ~って感じですね。
人生は日々反省などと誰かが言っていましたが、今日ほど反省点が露骨に出た日もないかもしれません。わりと形而下的(?)なことばかりですけども。

まったくもって

2005.11.23
聖歌隊の看板の文字をつくったり、古代哲学史のお勉強をしたり、月曜日のプレゼンテーションの準備をしたりと、微妙に忙殺されています。
学生は勤労してないので別にいいのです。
割と楽しいのかもしれません。

なんでしょうね

2005.11.17
最近、寝ても寝ても眠いです。
寝不足でしょうか。
意外と厄介です。

今日は校舎と校舎の間の光の差し込み具合が圧巻でした。
午後三時くらいでしょうか。
いい具合の光の間に、ごく自然に何人かの人がいるんです。
その光景が妙にドラマチックで本当に綺麗でした。
こういう美しさみたいなものは、意識して作り出せるもんじゃないなあと、今更ながら実感しました。

話は飛びますが、実感というのは卵が孵化するようなものですね、
最近つくづく思うのです。
卵として手の上にあるうちは簡単に扱えるんです。
でも手の上で孵ってしまうとどうしようもできない。
どうしようもないのに、孵化しなければそのことのほんとの所が見えない。
不便です。少なくとも私には不便です。

話を今日に戻します。
冬の空は好きです。
好きなのに散歩をする時間がない。
授業が終ると真っ暗なんですね。
だから今日はなんとなく、昼の授業をサボってみたのです。
でもサボっても、その時間が全くの無駄だったような気がします。
なんだか悲しいことです。
一瞬一瞬に満足できても、あとで虚しさが溜っていきます。
贅沢ですね。
しかもサボったその講義は、意外に面白いものだったらしく…
一応知っているからいいやって、負け惜しみですよ。
でも講義と時間を天秤にかける私は、だいぶ情けないかもしれません。

親にボジョレーを買いました。
去年までは目一杯貯金して、情報も色々あつめたりしたのですが、今年はいつのまにか解禁されて、なんとなく買いました。
なんとなくなんとなくで、でも楽しい気分で持って帰ったんですよ。
みんなよろこんでくれました。
私はやっぱりなんとなく心残りです。
まあいいや。
「どうせお祭りワインだし。」
いや、誰かさんの受け売りですよ。

最近はこんな感じです。
テンションが低いんですね。
テンションだけで考え方がころころ代わる自分が悲しい。

トマトジュース探求

2005.11.07
最近頭の中で牡蠣がダンスしています。
この時期になると誘惑が増えますね。
牡蠣とか牡蠣とか牡蠣とか。

んで、とりあえずトマトジュースを飲み漁るのです。
べつに牡蠣と関係あるわけじゃないんですけどもね。
好きなだけです。
どうせ学生なので、「狼の桃」なんてのは間違っても買いませんよ。
むしろ買えません。
でも、とりあえず割といろいろな種類を飲んでみたのでレビューしてみます。
まあトマトジュースなんて、前に飲んでたものとどうしても比べてしまうので、普遍的(?)な評価なんてできないのですけども。

カゴメ トマトジュース
なんだか甘くてさらさらしていて、あまり好きじゃないです。
凛々子さんは甘口なんでしょうか。
甘みのせいか、飲みすぎるとちょっと気持ち悪くなったり。
相性の問題ですね。

カゴメ 味わいしぼり
数量限定だそうです。
なにか心がうずいたので、ついつい衝動買いしてしまいました。。
さらさらよりもドロッとした感じです。
仄かにトマトのかけらっぽいものが入っています。
味は微妙に甘め。
DON SIMONを飲んだ後に飲んだせいか、微妙に甘くてちょっときつかったです。
レモンとの相性が意外と悪いかも。

キリン 完熟トマト
微妙な青臭さがなんともいえません。
ドンキで箱買いしたからでしょうか。
やっぱりサラサラ系。
でも塩が入ってるせいか、甘みは低い気もします。
高校の帰りによく飲んだりして、わりと思い出深いのが個人的にミソです。

マルカイ 純トマトジュース
これは結構濃厚です。たぶん。
冷蔵庫に放置していたら、弟が飲んでいました。
おいしかったとのことです。

デルモンテ トマトジュース(有塩)
みんなおいしいって言うんですが、私もおいしいと思います。
トマトジュースのなかでは一番すきかもしれない。
スープでも飲んでるような感じなんですよね。
でもなんですか、廉価なカンがほとんど売ってないのがキズです。

DON SIMON トマトジュース?
これ、安いしなんか怪しいので敬遠してたら、かなりいけました。
デルモンテみたいな感じだけど、ちょっとケチャップっぽいかなあと。
レモンたらすともっとおいしくなりますね。こしょうを入れても合うし。
相性がよかったのかなあ。

エディット・シュタイン

2005.11.05
十字架の聖テレサ・ベネディクタの御絵やらメダイやらを求めて、四谷のカトリックショップをふらふらしていました。
いろいろ読んで、なんだか感動したり尊敬したりなので、ちょっと気になったのですよ。
全然ないですね。
まあなんか、そういう人じゃないのかなっていう気はしますけども。
時代も近いですし。(でも同時代のコルベ神父はいっぱいある・・・)

当然のごとく修道名よりも本名のほうが有名らしいです。
シスターに聞いたら、普通に「え、どなたですか?」と聞かれてしまいました。
うーん・・・。

パスカルの賭け?

2005.11.03
寝ぼけているので、いつにもまして乱文でいきますよ。

なんだかんだ言って、そろそろ洗礼を受けることになりそうです。
いや、「させられる」っぽっく書いてみましたけど、自発的に考えているのですよ、いろいろと。もしかしたら「自発」じゃないのかもしれませんが。

私がカトリックに興味を持ったのは、絵画からでした。
絵画が好きで、教義をしらべて・・・ってなんだか不謹慎な言い方ですけどもあくまで「学習の対象」みたいに思ってたんですね。でも理解だけはしっかりともちたい・・・みたいな。
それで、今まではわりと「アウトサイダーのほうが見える部分もたくさんあるだろう」とか考えていたのです。私は主観的になりがちなので、こういう形で見つめていくのもアリかなと思って。
でも聖書を読んで、要理を勉強して、ミサに参加して、その他なんだりしていくと、いくら「洗礼を受けていない」という線引きを設けても、どうしても中途半端なインサイダーになっちゃってるんですね。冷静に見られるどころか、まだ満足に理解もしていないのにどうしても主観的になってしまうのです。それに信仰を持っていても、冷静にそれを見つめてる部分を持っている方だってたくさんいらっしゃる。むしろそっちのほうがおおい。それを見ていると、今の自分のような状態が一番情けないのかもしれないと思ったのが一つの理由です。
そしてそれにも関連することですが、カトリックというのは秘跡を受けないと、どうしても理解できない部分っていうのがとても大きいのです。「洗礼はすべての秘跡の門」と神父さんも言っていましたが、まさにその通りなわけで。
例えばついこの間まで「御聖体の年」で、それに関する話しをよく聞きました。WYDでも「エウカリスティアにおけるキリストとの出会い」というテーマのカテケージスがありました。
荘厳司教ミサにも参加しましたが、そのミサの意向も「御聖体のミサ」で、お説教もそれに関するものなのです。でも聞いても理解できないんですよ。
いくら「聖体は過去の聖人たちとも共有されるものだ」とか言われても、概念として理解できても実感を伴わない。それが悔しかったり、うらやましかったり。そういう話を聞いた後に聖体拝領って、いっそう心に染みそうじゃないですか。
こう書くとなんですか、くやしいから洗礼受けるみたいじゃないですか。
そこまで大きなウェイトじゃないのですけども。

文章を書くのが難しいですね。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。