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パスカルの賭け?

2005.11.03
寝ぼけているので、いつにもまして乱文でいきますよ。

なんだかんだ言って、そろそろ洗礼を受けることになりそうです。
いや、「させられる」っぽっく書いてみましたけど、自発的に考えているのですよ、いろいろと。もしかしたら「自発」じゃないのかもしれませんが。

私がカトリックに興味を持ったのは、絵画からでした。
絵画が好きで、教義をしらべて・・・ってなんだか不謹慎な言い方ですけどもあくまで「学習の対象」みたいに思ってたんですね。でも理解だけはしっかりともちたい・・・みたいな。
それで、今まではわりと「アウトサイダーのほうが見える部分もたくさんあるだろう」とか考えていたのです。私は主観的になりがちなので、こういう形で見つめていくのもアリかなと思って。
でも聖書を読んで、要理を勉強して、ミサに参加して、その他なんだりしていくと、いくら「洗礼を受けていない」という線引きを設けても、どうしても中途半端なインサイダーになっちゃってるんですね。冷静に見られるどころか、まだ満足に理解もしていないのにどうしても主観的になってしまうのです。それに信仰を持っていても、冷静にそれを見つめてる部分を持っている方だってたくさんいらっしゃる。むしろそっちのほうがおおい。それを見ていると、今の自分のような状態が一番情けないのかもしれないと思ったのが一つの理由です。
そしてそれにも関連することですが、カトリックというのは秘跡を受けないと、どうしても理解できない部分っていうのがとても大きいのです。「洗礼はすべての秘跡の門」と神父さんも言っていましたが、まさにその通りなわけで。
例えばついこの間まで「御聖体の年」で、それに関する話しをよく聞きました。WYDでも「エウカリスティアにおけるキリストとの出会い」というテーマのカテケージスがありました。
荘厳司教ミサにも参加しましたが、そのミサの意向も「御聖体のミサ」で、お説教もそれに関するものなのです。でも聞いても理解できないんですよ。
いくら「聖体は過去の聖人たちとも共有されるものだ」とか言われても、概念として理解できても実感を伴わない。それが悔しかったり、うらやましかったり。そういう話を聞いた後に聖体拝領って、いっそう心に染みそうじゃないですか。
こう書くとなんですか、くやしいから洗礼受けるみたいじゃないですか。
そこまで大きなウェイトじゃないのですけども。

文章を書くのが難しいですね。
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