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べつに病んでいるわけじゃないよ

2005.11.28
たまに消えてしまいたいなと思うときがあります。
恥ずかしいとかそういうのではなくて、自分が自分でなくなって、なにか違うところから身の回り全てをみてみたいと思うのです。
いつも見てる木のてっぺんだの、建物と建物の隙間だの、授業を受けている人の頭だの、なんともくだらないものを見てみたくなるんです。
よく「鳥になりたい」だのといいますが、鳥になっても見えないものが多すぎる。幽霊になりたいんですかね。
こんなセンチメンタルなことを考えてしまうわけです。
どうせ暫くたったら、こんなことを書いたことが恥ずかしくなって、急いでこの記事を削除するのかもしれません。

んで、今日は「キリスト教の礼拝」という講義でプレゼンをしました。
私の担当箇所は「言葉の礼拝の神学」についてで、これがなかなか難しいのです。
自分が正しいことを書いているのかも分からない。しかもどうしても主観が入ってしまうのですね。
それで聞いている人は先輩ばかりで、しかも神学生もたくさんいて・・・と。
みんなしっかり聞いてくれて、ツッコミははいらなかったのですけれど、それが逆に辛かったです。
自分がただひたすら間違ったことを言って、聞いている人たちはまるでそれに呆れているのではないかと思ってしまうのです。
このプレゼンに限らず、どのプレゼンでもそんな気がしてしまうものですが。
準備が足りないんでしょうね。だらだらやっていましたから。

彼氏とどうしたのこうしたの話している友人を見て、ちょっとそういうのが羨ましくなりました。
学科の先生には「神学は恋愛と失恋をしなきゃできないもんだよー」と言われ、母校の先生には「恋がないと哲学なんて出来ない」と言われ、なんとなく焦ったり考えたりしています。
でもどうせあがいても努力しても、良縁(?)なんてものは見つかりそうにないし、こういう自分を好きになってくれそうな異性も特にいそうにないのでお預けです。
静観します。
なんでしょうね、羨ましいって言うのは恥ずかしいことなんでしょうかね。

外向きの自分と、中で考えてることの間にギャップが出来すぎてしまったのか。
なんとなく無意味に悲しくなることがあります。
外向きなんてあまり見なくてもいいのかもしれないのに。
こう書いて見ると、なんだか最近私はテンションが低いようです。
夜書くからいけないのかなあ。
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コメント
 こんにちは、通りすがりの者です。「外向きの自分と、中で考えてることの間にギャップが出来すぎてしまったのか。 なんとなく無意味に悲しくなることがあります」という言葉を見て、僕自身も共鳴してしまいました。こういう時、僕は次のようなクエスチョンが浮かんできます。「僕は今こうむなしい気持ちになっているけど、神様は僕のことをどう考えているんだろう。」私は次のように思います。「神様は私自身よりもさらに私に近いところにおられる。」存在の根底にともにいてくださるのだと。自分では自分が何なのかということは意外にわかりません。しかし全てをご存知の神様はあなたの魂の最も近いところにおられるのでは、と思います。なぜなら本当の意味で「知る」ということは、責めることではなく愛することですから。
 神様はきっと私たちの存在の根底から愛してくださっていると思います。あなたがあなただから神は愛すのです。過去のあなたでもなく、未来のあなたでもなく、「今のあなた」を神は全ての愛をもって包んでくれているはずです。そういまこのときにも。神様にとってあなたに外も内もありません。あなたがあなたである、それだけで十分なのです。あとはその愛にどう答えるか、これが人生なのかもしれません。答えるから愛されるのではなく、愛されるから自然と答えられるのです。アウグスティヌスみたいに。
 日々ふとわけが分からぬ瞬間が僕に訪れるとき、いつもこのことを思い出します。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4)この待降節の間、赤ちゃんになってくれたイエス様の優しいほほえみが、あなたの心の最も深いところで輝きますように!!
【2005/12/02 00:55】 URL | #-
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